経営に対する思い
義なくして利なし
かつて、ライブドアの元社長堀江貴文氏のことを、週刊誌の投書で次のように批判したことがあります。
「(堀江氏は)『世界一(規模)の会社』を作りたいようだ。しかし、本来その背景にあるべきはずの社会的使命や理念・論理が見えてこないのは私だけではあるまい。現在までの堀江氏の言動を見ている限り、その経営理念や方向性は顧客に対して一定の利便性を提供する事にとどまっている。(中略)つまり、社会は今後どうあるべきか、そのためにどういった社会的使命をもって経営に臨んで行くのかが見えてこないのである。ただ会社を大きくしたい、それしか見えない。
目先の顧客ニーズ(顧客欲求ともいえる)に対応する事が企業の社会的使命ではない。今後社会がどうあるべきか、そのために自分たちの企業がどうあるべきかを考え実行することが社会的使命の遂行であろう。そして、そうした企業を市民が選別すべきである」(2005年3月18日『週刊金曜日』)。
その際、義のない企業が利を得る社会は、すでに破たんしているとも書きました。地域の絆にとっての、「義」は、法人理念であり、運営理念、運営方針であると私は考えます。
「義なくして利なし」は、私の経営方針における第一義です。
経営とは?
経営者は、方針選択の岐路に立たされる度に、決断をしなければならない。
その際、例えばA・B・Cという選択肢があって、結論的にAという選択が最良であったとして、重要なのはAという選択肢を選ぶに到った「過程」である。
経験や思いつき、直感でそれを選択したのか?それとも利用者のニーズや、環境評価に基づいたデーターを元に選択したのか?同じAを選択し、その結果が同じであっても、その「過程」の如何が経営の急所である。
なぜなら、今回は同様に最良の選択肢を選択できたとしても、次回、次々回の選択においても同じく最良の選択肢を得られるとは限らないからだ。
重要なのは結果ではなく「過程」である。
思いつきでAを選んだか、理論とデーターを元に根拠・証拠に基づいてAを選んだのか?その「過程」の如何が全てである。正当な「過程」を持ち備えている経営者は、失敗したとしても必ず再生が出来る。
また、致命的な失敗をすることはありえない。しかし、しっかりとした「過程」を持ち得ない経営者は、日々博打を打っているようなものであり、たとえ、成功を繰り返したとしても、その経営は脆弱である。