人権と平和に対する思い
「常識」を疑うことから人権擁護は始まります。
人権意識の確立は、世の中の「普通」や「公理」、「常識」を疑うことから始まると私は考えています。1億2千万人の客観性を問うことほど馬鹿らしいことはありますまい。10人いれば10通りの、100人いれば100通りの「普通」があります。ただそれだけでは、ありませんか?
にもかかわらず、特に私たち日本人は、「普通」や「常識」から外れることに大きな違和感を抱きます。大切なのは、誰にとっての「普通」や「常識」なのか?私たちは常に猜疑心を持つことではないでしょうか?認知症高齢者にとっての「普通」でしょうか?障害者にとっての、子どもにとっての「普通」ですか?
私たちひとり一人が、自分にとっての「普通」を信じて守っていくこと(無論これには、大変な忍耐と苦痛が伴います)。また、自分とは異なった「普通」が存在することを認めていくこと。この営みが、社会に人権意識の確立を呼び覚ます契機になると信じております。
人権と平和主義
平和の対義語が戦争であるならば、戦争はどういった形で展開されていくのか、それは歴史を見ればよく分かります。まずは、人々の言論や、信教、精神の自由が蹂躙され、そして、軍国化が進み成されるものです。
であるならば、常日頃から、人々の権利擁護の営みを実践している福祉専門職の取り組みは、平和主義への弛まぬ貢献を行っていることになると私は考えます。